2008年7月9日水曜日

7/9 Today 森鴎外没 (1922)……「死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ」

大正11年7月9日、森鴎外没。永井荷風はその前日団子坂の鴎外邸を見舞い特別に鴎外の病室に招き入れられる。「鼾聲唯雷の如し」と。翌日も荷風は見舞う。「7月9日。早朝より団子坂の邸に行く。森先生は午前7時頃遂に紘を属せらる。悲しい哉」。葬儀は故人の遺言により虚飾を廃して行われ、鴎外は「石見の人森林太郎として」葬られた。

森鴎外の遺言とは次のようなもの:
余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリココニ死ニ臨ンデ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官権威力ト雖、此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス、余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス、宮内省陸軍皆縁故アレトモ生死別ル、瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス、森林太郎トシテ死セントス、墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス、書ハ中村不折ニ委託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ手続ハソレゾレアルベシコレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス

大正11年7月6日

森 林 太 郎 言
賀 古 鶴 所 書

「いかなる官憲威かと雖もこれに反抗することを得ず」とは過激な言葉だ。当時の陸軍内での医官としては最高位である軍医総監にまで出世をした人であったが、その内心には屈折したものがあったようだ。

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